京都で奉公しながら作品作りをしていた円山応挙は当初は眼鏡絵などを創作していた
円山応挙(1733-1795)は江戸時代中期から後期にかけて活躍した絵師です。丹波国南桑田郡穴太村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)の農家の息子として生まれ、10代の頃に京都に奉公に出ています。京都の地で尾張屋という玩具製品を取り扱う大店で人形作りや絵を描く仕事をしていました。この時、オランダから輸入された眼鏡絵を見て円山応挙は「四条河原遊涼図」や「賀茂競馬図」などの眼鏡絵を創作しました。眼鏡絵とは鏡を45度ほど傾けて、傾けた鏡越しに絵を眺める手法です。こうすることにより、さらに深く遠近感が感じられました。その後、応挙はこれまでの伝統を重んじてきた時代で、写生画という全く新しい技法を確立させます。
写生画という新たなジャンルを確立した円山応挙は一流派を築く
実物をまじかに見て、その対象を見たままの姿を独自に再現する応挙の画風は、当時の人々にとっては斬新で驚きに満ちたものでした。さらに斬新さだけではなく、精密でやわらかく生き物のあたたかさも感じられる作品たちは、高い賞賛の声と共に迎えられたのです。やがて爆発的大人気となった応挙のこの画風は写生派の祖とされ、円山派として一流派を形成するに至りました。また応挙は屏風に絵を描くことにも力を入れています。「雪松図屏風」が有名で国宝に指定されています。この作品は雪の描写でありながら、雪の絵は実際には描かず背景の白を活かした構成になっているのに高い評価を受けています。