独学で東洋画を極め、味わいのある作品達を世に出した「富岡鉄斎」は京都に生まれました。幼いころから勉学に励み、国学漢学など多くを学び学者を目指していました。鉄斎は出家後、大田垣蓮月尼に預けられました。その後、窪田雪鷹大角南耕に絵の描き方を教わり、南画、大和絵を学びます。1863年頃には、画家で暮らしを立て始めます。
鉄斎は30歳から40歳くらいまで大和国石上神宮や大鳥神社などの宮司を勤め、神社の復興にも努め尽力しました。また、「万巻の書を読み万里の路を行く」を実践するが如く、日本各地に旅に出て写生をして巡りました。
◇世界にも人気の高い「画人」
晩年には京都美術協会委員や帝室技芸員、帝国美術院会員になるなど、鉄斎は高く評価されていました。鉄斎の作品は、日本の歴史や故事、物語や人物を多く描いています。また、伝統的な山水画もたくさん残されています。鉄斎の水墨画は日本画を超えた独自のものであり、彩色にも洋画を思わせるような使い方が見受けられます。このこともあってか、日本のみならず外国からの人気も高く、諸外国で高く評価されています。
鉄斎の代表する作品として「阿倍仲麻呂明州望月図」や「円通大師呉門隠栖図」、また「魚籃観音図」や「青緑山水図」、「弘法大師像図」など多くあります。また、鉄斎は「画家」という肩書を好んではいませんでした。生涯で数万冊もの書物を読んだと言われている鉄斎は、「文人画家」と言われる由縁です。